ルカ8章

8:1 その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。

 イエス様は、神の国を説きました。神の国の教えは、十節に記されているように、神の国で報いを受けるために実を結ぶことです。それが良い知らせとしての福音です。

 なお、福音は、未信者が永遠の滅びから救い出されるための知らせだけを指しているわけではありません。

8:2 また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、

8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

 また、多くの女たちが、自分の財産をもって彼らに仕えていました。

8:4 さて、大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。

 イエス様は、多くの人が方々から来たので、話をされました。その時、例えを用いたのです。

8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。

 それは、種まきの例えでした。ある種は、道端に落ちました。人は、それを踏みつけたのです。そこは、人が踏みつけるような場所であり、道の一部といってもいい場所です。固く踏みつけられていて、種が地中に入る余地がありません。そこは、神の言葉である種が受け入れられる余地がない心を表していて、人に種が踏みつけられるのです。人が価値を認めて受け入れることがないことを表しています。

8:6 また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。

 別の種は、岩の上に落ちました。成長しましたが、水分がないので枯れました。

8:7 また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。

 別の種は、茨に塞がれました。

8:8 また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

 良い地に落ちた種は、成長し百倍の実を結びました。

 例えで話しましたが、聞く耳のある人は聞きなさいと言われました。何が話されているのか理解しようとして聞かないと聞くことが出来ないのです。道端に落ちた種のように、最初から聞く価値がないと決めつけていれば、一切心には入らないのです。

8:9 弟子たちは、このたとえがどういう意味なのか、イエスに尋ねた。

8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。

 イエス様は、弟子たちには解き明かしをされました。しかし、他の人たちには解説されませんでした。それは、彼らを試すものになっています。見ているが見ない人たちが見ることがないようにするためです。聞いているが、聞くことのない人たちが聞くことが出来ないようにするためです。本当に語られていることを自分のものにしたいと願って求める人がそれを獲得するためです。

 聖書は、ほとんどが比喩で記されています。歴史の事実さえ、比喩になっています。そこには、比喩によってより深い神の御心を示す意図があります。比喩が正確に解かれないと、理解できないことが多いのです。

 まして、聖書を学ぼうとしない、あるいは、兄弟の語ることを聞こうとしないならば、御心を理解し、心に受け入れることはあり得ません。実を結ぶことはないのです。

8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。

 種は、神の言葉です。

8:12 道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。

 鳥は悪魔のことで、御言葉を取り去るように働いているのです。信じて救われることは、未信者が神を信じ、キリストを信じることも含まれますが、ここでは、実を結ぶことを目的としています。それは、信じた者たちが、神の言葉に従って生きて、実を結ぶことです。そして、御国で報いを受けるためです。それが救いです。

8:13 岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。

 岩の上に落ちた種が例えていることは、御言葉を喜んで受け入れたが、根がないので実を結ばない人のことです。枯れることは、しばらくは信じていても試練の時に身を引くことです。この人は、御言葉を受け入れて信じて歩んでいたのです。しかし、試練の時にその言葉を信じ続けて歩むことができず、その歩みを止めてしまうのです。

 もはや信仰による歩みがありません。そのような人が実を結ぶことはないのです。

8:14 茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。

 茨の中に落ちたものは、御言葉を聞いたのです。しかし、時が経つと色々なものに塞がれます。生活における思い煩い、富、快楽などに惑わされるのです。御言葉に従って生きようとはしません。

 生活のための思い煩いは、信仰の歩みを妨げるものになります。御言葉に従って歩もうとするのに、会社や、学校、社会、近所付き合いなどでそれが妨げられようとするのです。その時、御言葉に堅く経つことが必要です。信仰を働かせるのです。

 富や、快楽は、肉の欲望に働きかけます。それも、実を結ぶことを妨げます。

8:15 しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。

 良い地に落ちるとは、神の目に適った良い心で御言葉を聞いて受け入れる人のことです。それも、信仰によって与えられる良い心で聞くのです。御言葉を聞く前に、それを聞いて受け入れようとする信仰が働いているのです。そのような信仰に応えて、神が、御言葉を受け入れるようにしてくださるのです。御言葉を受け入れる信仰がなければ、御言葉は、受け入れることが出来ません。

・「良い」地→魅力的な良いもの。「立派な」も同じ原語です。

・「良い」心→本質的に良い。信仰を通して神から与えられ、神によって力づけられる。

8:16 明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。

8:17 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。

 明かりは、御言葉のことです。それを扱うのは、神様です。人は、明りを器で隠したり、寝台の下に置いたりすることはしません。そのように、神様は、それを隠そうとされることはないということです。燭台の上に置くように、誰にでも見えるようにされるのです。

 ただし、御言葉は隠されています。例えで話されるように、謎で記されているのです。しかし、隠すためではないのです。人々に明らかに示しているのです。隠れていても、必ず明らかにされるのです。

8:18 ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」

 問題は、聞き方に注意することです。持っている人だけがそれを自分のものにすることができるのです。持っているものとは、信仰のことです。信仰によって聞く心を持ち、受け入れるのでなければ、自分のものにはならないのです。信仰によって聞くならば、神様が受け入れることができるようにしてくださるからです。人の能力にはよらないのです。

 信仰を持って聞かない人は、自分が持っていると思っているものまでも取り上げられます。聖書の言葉について、あるいは、比喩について、自分は知識を持っていると思っても、それが信仰によって、神の働きをとうして教えられたものでないならば、自分が知っていると思っていたものでも、取り上げられて何もないのです。

 ですから、少なくとも、自分のものにしたいという願いがなければ、聖書の言葉は、私たちのうちには入りません。信仰によって受け入れるならば、実を結びます。それは、神の国で永遠の報いとしての資産となる実を結ぶのです。

8:19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。

8:20 それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。

 母と兄弟たちがイエス様に会うために来ました。イエス様に近寄れなかったので、人を通して、来たことが告げられました。

8:21 しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」

 イエス様は、神の言葉を聞いて行う人たちが、イエス様の母であり兄弟であると話されました。伝えに来た人は、彼らが肉親であり、特別な存在であると考えていたのです。それで、わざわざ取り次いだのです。それは、より近い、親しい交わりの関係を持っていると考えたからです。しかし、イエス様は、そのような関係は、神の言葉を聞いて行う人との間の関係であると示されました。私たちは、神の御心を行うことにおいいて、イエス様と一つになることができます。それは、永遠の命の側面でもあります。

8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。

8:23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。

8:24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。

8:25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

 イエス様と弟子たちが船で湖を渡る時、突風が吹き下ろし危険になりました。その時、弟子たちは、眠っているイエス様を起こし、訴えました。「私たちは死んでしまいます」と。彼らは、イエス様を信じていなかったのです。イエス様は、そのことを指摘されて、あなた方の信仰はどこにあるのですかと言われました。このような厳しい言葉を語られるのは、神の御子を目の前にしながら信じないからです。弟子として訓練している中で、イエス様を驚かせるような信仰を現した者はいません。異邦人の百人隊長や、ツロの女は遥かに優れた信仰を現しました。後に、イエス様に代わり人々に信仰によって歩むことを教える務めを担う弟子たちが、このような状態だったのです。

 イエス様は、風と荒波を叱りつけられました。それらが静かになり凪になるのは、イエス様の業であることを明確に示すためです。彼らは、その業を目の当たりにした時、驚き恐れました。彼らは、まだ、イエス様について知ることがありませんでした。神ご自身であるとは明確に知ることはなかったのです。驚き恐れたのは、彼らの予想を遥かに超えるものであったからです。しかし、神であるならば、それができないでしょうか。

 また、一体この方は、どういう方なのだろうと言いました。あなたは神ですと言い表し、ひれ伏すこともなかったのです。どういう方とは、分からない時に使う言葉です。分からなかったのです。

8:26 こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。

8:27 イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。

 ゲラサ人の地に悪霊に憑かれた人が住んでいました。彼は、服を身に着けていませんでした。そして、墓場に住んでいました。ただし、悪霊を追い出されて正気になることに関しては、直接関係しない記事です。しかし、このことを記すことで、比喩を示しています。

 悪霊に憑かれていたことは、悪魔の支配にあることを表しています。人の目からも彼は狂気の中にいました。これは、人が悪魔の支配の中に生きている状態は、神の目には狂気の中に生きていることなのです。正気ではありません。

 服を身に着けないことは、自分の肉を覆わないことの比喩です。肉のままに、欲のままに生きているのです。

 墓場に住んでいたことは、神の前に死んだものであることの比喩です。

エペソ

2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、

2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

 あなた方とは、異邦人の信者のことです。かつての彼らは、罪の中に死んでいました。悪霊に憑かれた人が比喩として表しているように、空中の権威を持つ支配者である悪魔の支配のもとにあったのです。

 私たちと記されているユダヤ人も、自分の欲のままに生きていたのです。しかし、神は、そのように背きの中に死んでいた者を生かしてくださいました。キリストとともに生かしたと記されていますが、死んでいた歩みが生きたものとなったということです。信仰により、永遠の滅びから救われただけでなく、その歩みが生きたものとされたのです。「救われた→救われる現在形受動態。」この救いは、私たちが御霊により御心を行う生きた歩みに対して御国において報いを相続することを言っています。これは、歩みに関することなのです。

 「あわれみ」は、契約に対する忠誠のことです。神は、大きな愛によってそれを徹底的に果たされたのです。愛に応える信仰に対して、神の恵みとして応え、キリストともに葬られ、よみがえらせられたように、御霊によって新しく生まれた者として歩むようにしてくださいました。これがキリストとともに生かされたことです。

 それについては、「救い」と「恵み」と表現されています。死んだ歩みから生きた歩みに変えられたことが救いです。そして、それは、信仰に応えて与えられた祝福なので恵みと表現されています。 

2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

 キリスト・イエスにあってともによみがえらされたことは、キリストのよみがえりと同じように肉に対して完全に死に、新しく生まれた者に変えたことを表しています。天上に座らされたことは、この世には属さない、世とは完全に分離した者とされていることを表しています。私たちが新しく生まれさせられたというのは、このように完全なものであることが示されています。

 これは、信仰によってこのことを信じた人に与えられます。御霊によって歩む人に与えられるのです。ただし、多くの人がこのことを信じないので経験しないのです。自分には、肉があるので無理だと公然と語る人もいるのです。残念なことです。

2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

 神がご自分の栄光のためにこの恵みを示そうとしておられます。それは、限りなく豊かな恵みです。恵みは、神が用意しておられる好意による祝福です。信仰によって受け取ることができます。それで、信仰によって救われたと記されています。

 そして、このように完全なものとして歩むことができることは、人から出たことではありません。人の努力によって達成できることではないのです。信仰によるのです。そして、それは、神の賜物として与えられるのです。

 このような完全な歩みは、無理だと考える人は、人の努力によって達成しようと考えるからです。信仰によらないのです。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 人の努力による行いではないのです。それは、誰も誇ることがないためです。

2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

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 そして、これが良い行いをすることであることが改めてここに記されています。私たちは、良い行いをする作品として造られました。それによって神の恵みの栄光が現されるのです。

 良い行いは、神があらかじめ備えておられます。それを行うように御霊が働かれるのです。もはや、私の行いではなく、御霊の行いなのです。三章には、うちに住まれるキリストの働きであることも記されています。

8:28 彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」

 その人は、イエス様に向かって、神の子イエスと言い表しました。この方が、神の子であると信じていたのです。それで恐れました。また、自分とイエス様とに何の関係があるかと問いましたが、自分のしていることに何か介入する理由はないはずだと言っているのです。自分を苦しめることがないように願いました。

ヤコブ

2:19 あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。

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8:29 それは、イエスが汚れた霊に、この人から出て行くように命じられたからであった。汚れた霊はこの人を何回も捕らえていた。それで彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた。

 イエス様は、汚れた霊にこの人から出ていくように命じられたからで、悪霊は、イエス様が厳しい処置をとるのではないかと恐れたのです。悪霊は、この人を支配していました。人々によって鎖と足枷で繋がれていましたが、それを断ち切り、荒野に駆り立てられていました。

8:30 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「レギオンです」と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。

 悪霊が苦しめることがないように求めたことに対して、イエス様は、彼の名を尋ねました。その名は、レギオンです。ローマの軍隊の一個師団の名称で、歩兵約六千人に騎兵を加えたものです。その名称は、大勢を意味することがその後に記されています。

8:31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。

 悪霊が恐れていたことは、底知れぬところに行けと命じられることです。イエス様には、彼らをそこに行くように命じる権威があり、一度命じられたら従わなければならないことがわかっていました。それで、そう命じないように懇願したのです。

8:32 ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。

 悪霊は、豚に入ることを許してくださるように懇願しました。イエス様は、それを許されました。

8:33 悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。

 悪霊どもは、豚の中に住み続けるのではなく、その豚は、すぐに崖を下って湖に雪崩れ込み、溺れて死にました。悪霊は、最初から意図していたのです。

8:34 飼っていた人たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や里でこのことを伝えた。

8:35 人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。それで恐ろしくなった。

 悪霊に憑かれた人は、服を着ていました。以前裸であったことは、肉を表すことの比喩です。服を着たことは、自分を覆うことの比喩です。そして、正気に帰りました。物事を正しく判断することができるようになったのです。座っていたことは、以前の凶暴な振る舞いがないことを表しています。すなわち、肉のままに生きる歩みをやめて、自制が働いていたのです。

8:36 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人がどのように救われたか、人々に知らせた。

 見ていた人たちは、悪霊に憑かれた人が「救われた」ことを人々に知らせました。直接的には、悪霊から解放されたことを表します。比喩としては、悪魔の支配にあり、肉と欲のままに生きていたところから解放され、神の支配に入ったことの比喩です。

・「救う」→罪の罰あるいは罪の力から救い出し、安全な中に入れること。

8:37 ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。それで、イエスが舟に乗って帰ろうとされると、

8:38 悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。しかし、イエスはこう言って彼を帰された。

8:39 「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。

 ゲラサの人々は、イエス様に出て行って欲しいと願いました。非常な恐れに取りつかれたことがその理由です。彼らは、悪霊を追い出す権威のある方を見たし、他の人から聞いたのです。そして、彼らは、豚を飼い、律法によれば汚れた動物を飼育し、生業としていたのです。咎めを感じたのです。豚が死んだのは、イエス様のせいではありませんが、他の豚も死んでしまうかも知れないということは、考えられることです。彼らは、恐れたのです。

 イエス様が帰ろうとする時、悪霊が去ったその人は、お供をしたいと仕切りに願いました。神である主に仕えたい思いがありました。神が、この人のために御子を遣わし、彼が願ったわけではありませんが、悪霊を追い出してくださったのです。この業は、神の一方的な主権による業です。彼は、大きな恵みを得たのです。そのような人が、主に仕えたいと願うのは、当然のことです。恵の偉大さを覚えたからです。もし、私たちが神の恵みの偉大さを覚えるならば、喜んで仕えることかできるのです。

 イエス様は、その人がともに行くことを許されませんでした。家に帰って、自分の置かれたところで、神がしてくださったことを話して聞かせるように言われました。そのことは、この人だけができることです。町の人々は、イエス様を拒んだのです。彼らは、イエス様の言葉を聞かないでしょう。しかし、この人は、自分の住んでいるところで、自分の経験したこととして語ることができます。イエス様は、この人に委ねたのです。

8:40 さて、イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたのである。

 イエス様が帰ってくると、群衆は喜んで迎えました。イエス様の業は、多くの人に病気の癒しなど、良いものをもたらしたからです。

8:41 すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。

 ヤイロは、この時、特にイエス様を待ち侘びていたはずです。彼は、会堂司であり社会的立場の高い人ですが、イエス様の足元に平伏して懇願しました。彼の願いは必死でした。

8:42 彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。

 一人娘が死にかけていました。イエス様は、会堂司の求めに応じて、その人の家へ出かけられました。

8:43 そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。

 その途中に、今度は、十二年の間長血を患う女がいました。医者に全財産を注ぎ込みましたが癒されませんでした。

8:44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。

 女は、イエス様の後ろから近づきました。彼女は、密かに触れたのです。衣の房にさわれば癒されるという信仰があったのです。彼女の出血は止まりました。

8:45 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。

8:46 しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」

 イエス様は、わたしに触ったのは誰ですかと問いました。皆自分ではないと言いました。ペテロも大勢人がいてイエス様を囲んで押し合っているので、当然誰か意図せずに触ることがあることを言いました。

 しかし、イエス様は、触ったと言われたのは、信仰を持って触った人がいることを言われたのです。イエス様自身、ご自分から力が出ていくのを感じたからです。イエス様は、信仰を持って触ったので、応えられたのです。それで力が出ていったのです。ペテロのように、たまたま触ってしまったということではないのです。信仰をもって触ったことを知っていたのです。信仰をもって触ったのか、たまたま触ったのか、全て分かっていたのです。

8:47 彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。

 彼女は、隠しておこうと思いました。しかし、隠しきれないと知ったのです。この方が信仰によって触ったのかそうでないのかを知っているならば、隠しておくことはできないと知ったのです。「知った」ことは、「隠しきれないと思った」というのとは違います。彼女が黙っていたとしても、イエス様には分かっていると「知った」のです。その場にいた彼女はそう「知った」のです。彼女の予想や、感想ではないのです。事実に基づく判断なのです。そして、これを記したルカも、イエス様は知っていることを認識していますから、彼女が知ったと記したのです。もし、イエス様が彼女が触ったことを知らなかったとしたら、「彼女は、隠しきれないと思い込んで」と記さなければなりません。その事実がないのに、そう考えたということになるからです。

 彼女が震えたのは、そのような権威ある方の前に、自分中心の行動をとったことを恐れたのです。自分の道具のようにこの方の力を使ったからです。神は、そのような生き方を決して望まれないのです。しかし、それを告白し、神の権威の下に従うことは、自分からすることです。そこにも信仰が要求されます。イエス様を信じて、イエス様を主と告白して従うことは信仰によるのです。他の人に強制されたり、強く勧められたりして行うことではありません。イエス様は、彼女が自ら申し出るのを待たれたのです。

8:48 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 イエス様は、彼女が救われたことを話されました。彼女は、体が癒されることだけを求めました。イエス様には、癒す力あると信じる信仰がありました。それで衣のふさに触ったのです。しかし、イエス様は、それだけで去らせることをされませんでした。彼女にとって大切なことは、彼女が信仰によって救われたことです。イエス様を神と信じたその信仰のゆえに義とされたのです。罪赦されました。それは、体が癒されることよりもはるかに大切なことです。そして、今度は、彼女が全きうちに生きるように言われたのです。すなわち、神の御心を行って生きるように言われたのです。それは、イエス様が福音を語られた目的であり、御国で報いを受ける道です。

 ですから、イエス様は、彼女に、彼女が獲得した本当に良いものを告げる必要があったのです。

・「安心」して→名詞。神の御心を行うことでもたらされる完全さ。

8:49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」

 娘が死んだ知らせが届きました。

8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」

 イエス様から会堂司に、恐れないで信じているように言われました。そうすれば、娘は救われると。

 これは、この娘自身の信仰によることではありません。しかし、父は、主を信じ、救われたのです。その下にある娘も、信仰に歩むことが期待されます。死から生き返らされただけでは、意味のないことです。彼女が信仰に歩んで初めて価値ある救いとなるのです。

8:51 イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。

 イエス様は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブと両親だけを伴いました。弟子たちには、主を知らせるためです。父と母は、信仰の当事者です。

8:52 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」

8:53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。

 人々は、泣き悲しんでいました。そして、イエス様の言葉を嘲りました。死に対しては無力であると考えていたからです。

8:54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」

8:55 すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。

 イエス様は、少女の手を取って叫ばれました。子よ、起きなさいと。イエス様は、眠っていると言われました。その通りに起きなさいと言われたのです。起こす相手がその少女であることを明確にするために手を取られました。そして、眠っている子を呼び起こすかのように、叫ばれたのです。

 少女の霊が戻りました。彼女の霊は離れていて、体は死んでいたのです。彼女は、ただちに起き上がりました。イエス様の声に全てが完全に服従することがわかります。

 彼女に食事を与えるように命じられました。大事なことへの配慮を忘れません。

8:56 両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。

 両親は、驚いていました。信じてはいましたが、彼らの想像を超えるものでした。完全な健康状態に戻ったのです。しかし、イエス様は、この出来事を誰にも話さないように命じられました。両親は、信仰によってこの救いをいただきましたが、彼らは、主が自分たちの思いを遥かに超える方であるのを見たのです。彼らは、イエス様のことをよく知りませんでした。また、この娘は、まだ十二歳です。生き返ったことは、彼女自身の信仰によったわけではありません。証しを担うには、明確な信仰が必要です。まだ、早いのです。